医療・介護の現場でもう10年
アロマセラピストとして活動していても
今でも日々患者さんと接する中で
心が揺れる瞬間はたくさんあります
痛みや苦しみを抱えている患者さんを
目の前にすると
「なんとかしなきゃ」
「何かしてあげなきゃ」
「もっとできることがあるはず」
と思ってしまう
それは人として、とても自然な感情の揺れ動きです
だいぶ前の話になりますが
患者さんのお部屋に伺うと
もう言葉のやりとりも難しい状況で
「これが最後のアロマケアになってしまうかも」
と感じたことがありました
その時私は、いつもの脚のマッサージが終わって
「今日は手もやってあげたい」と思い
ハンドマッサージを始めました
その時、あまりお話もできない患者さんが
かすかな声で
「もう、いいよ」
と伝えてくれ、はっとしたことがありました
「なにかしてあげなきゃ」
その思いの裏にあるのは
「目の前の人が苦しんでいるのに、何もできない」
そんな自分への焦りだったり
なにもできない自分への”無力さ”に
耐えられない辛さ
それを打ち消すために
患者さんが今それを必要としているのか?を見失い
自分本位で手を動かしてしまった
それは本当のケアではない
そんなことを患者さんに気づかせてもらった
大きな経験の一つです
ホスピスに咲く雪柳
その時の私は
アロマセラピストとしてケアをするどころか
自分の感情に溺れてしまっていたわけです
目の前の人が苦しんでいるとき
私たちは本能的に「どうにかしたい」と考えます
・黙っていたら冷たいんじゃないか
・泣いているのに何もしないなんて
・何か言えば、してあげたら、少しは楽になるんじゃないか
「助けたい」は
「自分が安心したい」という気持ちと混ざりやすい
そんなところから、自分の不安を打ち消すため
ケア、というの名のもとに
「何かをしよう」
という自分本位の動きに繋がりやすい
だからこそケアする人はそういう揺れ動きが
常に自分の中に起こり得ることを知ること
そして自分が揺れてしまったとき
その揺れに巻き込まれてしまっていないか?に
常にアンテナを張らなければなりません
ホスピスから見える夕焼け
”Not doing, but being.”
「何かをすることではなく、そばにいること」
近代ホスピスの母 シシリー・ソンンダースが
遺した言葉
ケアとは、何をするか、という行為の部分よりも
目の前の患者さんとどう関わるか、という
ケアする側の「在り方そのもの」であると感じます
目の前の患者さんが
本当に望んでいるものを手渡すことが
ケアだとするならば
それは時になにかを「しない」ことを手渡す
ということも
相手を尊重し敬う
大切なケアの一つになり得ると感じています
あの時のことは今でも忘れられなくて
当時は本当に落ち込みましたし
患者さんに申し訳ないことをしたと
今でも思うのですが
消えかかる命のエネルギーを
「もういいよ」という言葉に乗せて
私に手渡して下さった
私はこのことをずっと忘れず
これからも現場に立ち続け
患者さんから頂いた学びをより良いケアへと
繋げていかなければならない
と思っています